拝殿
南殿 三社神社
由緒・沿革
末社 山神社(場所が解らなかったので、波太神社宮司さんにお教え頂きました。)
末社 門前社
末社 厳島神社
神馬
神輿舎
寶(宝)藏
舞台
参詣所
手洗鉢

 【由緒】
 波太神社は南方池の内にあり、延喜式内の神社にして角凝命を主神とし、相殿に品陀別命を祀れり。鳥取郷の総社にして、鳥取氏の其の祖神を祀りしものならん。今の大字桑畑なる字奥の宮にありて鳥取大宮と称せしが、南北朝の戦に鳥取氏の南朝に加わりしが為、天授年中山名氏に滅ぼされ、当社及び波太八幡宮並に宮寺たる神光寺も総て劫火に罹りて焦土と化せり。波太八幡宮は当時今の下荘村大字貝掛の指出森にありて、昔神功皇后の新羅より凱旋し給いしとき、務古の水門より紀の國に至らんとして御船を鳥取の玉津浦に繋がれ、武内宿禰皇子を懐にして其の海邊を逍遙せし縁あるに依り、同皇子即ち品陀別命を其の地に祀りしものに係り、神光寺は貞観年中南都大安寺行教和尚の其の祖紀船守の墓に詣づる為淡輪村に行かんとして、鳥取郷を過ぎけるとき、鳥取隼人正の一寺を創立して宮寺と為し、同和尚を開山たらしめたるものにて、宝塔・護摩堂・般若堂・東坊・西坊・普門院等鱗次檐を聯ねたりしと云う。鳥取氏已に亡び、当社及び波太八幡宮並に神光寺も鳥有と化せしかば、郷の耆宿之を歎じて、永徳年中其の三十六人力を戮せ私財を抛ち、地を南山の麓に卜して社殿を再建し、波太八幡宮の祭神を相殿に合祀し、神光寺を再建して、護摩堂・帳舎・僧房等旧観に復せしは即ち当所なり。然るに天正十三年豊臣秀吉の根来征伐に際し社頭再び兵火に罹りければ、御朱印地書類を初め平重盛奉納の太刀・梶原景時奉納の長刀、その他旧記什寶等悉く灰燼と化し、神領は没収せられて無縁となりしが、慶長四年豊臣秀頼は其の臣片桐東市且元を奉行として社殿を造営し、神光寺は祀官を扶けて祭祀を勤め来たりしも、明治維新後の神佛分離に依りて寺は廃絶し、社は同五年郷社に列し、同四十年一月神饌幣料帛供進社に指定せらる。境内は貮千貮百六拾坪を有し、本殿・拝殿・神饌所・回廊・舞台・参詣所・神輿舎・社務所・寶藏・土藏・納家・門を存す。本殿は石磴上にありて桁行四間・梁間貮間半、檜皮葺にして三方に高欄を附し、丹碧を彩して頗る古雅なり、即ち前記片桐且元の奉行となりて造営せしものなり。社殿の傍に三社神社あり、一に南殿と呼び、中央に神功皇后を祀りて王大神・左に武内宿禰を祀りて若宮・右に天湯河棚命を祀りて今宮と称す。外に山神社・門前社・厳島神社等の末社あり。石磴前に石燈籠あり、片桐且元の奉納なり。祭祀は往時より木村(今は田島と改む)・山本両氏の掌る所にして、両氏共に鳥取氏の裔なり。今の氏地は東鳥取村村・西鳥取村・尾崎村の全部及び下荘村の内大字貝掛にして、例祭は四月十五日・秋祭は十月十一日に行はるれども、以前は二月初午及び六月初午に大祭を行い、二月の初午には、大字貝掛の玉津裏に神輿の渡御ありて貝掛より甲冑せる武士の出迎えありしは、三韓征伐の古式に據りしと傳え、六月の初午には、氏子の各村は矢倉と称して御所車に屋根を付けたる車を曳出して参詣し、其の数四五十臺の多きに及びしが、今は十月十一日の大祭前日の宵宮に矢倉の宮入を為し、其の数は稍減じたるも尚二十臺の餘に出で、石田の血祭と呼ばれて非常に喧噪し、其の壮観を見んとて群集雑閙せる為め、地方の名物祭となりて其の名高し。社寶に御西院天皇の宸筆臺軸及び三十六歌仙の書畫参拾六幅あり、畫は総て土佐光信の筆にして、書は当時の上郷三十六人の筆なり。
【主祭神】
 角凝命(つのこりのみこと)
【相殿神】
 応神天皇[品陀別命](ほんだわけのみこと)
【末社】
 三社神社        御祭神:神功皇后(じんぐうこうごう)
               御祭神:武内宿禰(たけのうちのすくね)
               御祭神:天湯河棚命(あめのゆかわたなのみこと)
 山神社          御祭神:大山祇命(おおやまづみのみこと)
 門前社          御祭神:豊磐門戸命(とよいわまどのみこと)
               御祭神:櫛磐門戸命(くしいわまどのみこと)
 厳島神社        御祭神:市杵嶋比売命(いちきしまひめのみこと)
               御祭神:国常立命(くにのとこたちのみこと)

◎所 在 地  阪南市石田167  
◎例    祭  10月第二日、第三月
◎宮入やぐら  石田宮本鳥取中下出黒田和泉鳥取山中渓
           自然田上組自然田東組自然田上東組朝日町
           相生町尾崎宮本町大西町新町鳥取上組
           榮組波有手組貝掛

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